蘇る古代王国/チャンパ遺跡
チャンパ遺跡はベトナムの長い海岸線に沿って中部から南部にかけて広範囲に分布している。 それらの多くは丘陵の上に東を見据え、何百年にも渡る度重なる試練に晒され佇んでいる。
西暦192年、現在のベトナム中部沿岸部、フェ(Hue)地方に中国人によって『林邑』と名付けられた王国が存在していた。 この王国はサンスクリット語の史料により、後に『チャンパ』と呼ばれるようになった。
4世紀後半、チャンパ王国のバドラバルマン王は中部沿岸の港町ホイアン(Hoi An)の南西約50キロに位置する緑深い山中に壮麗な神殿、ミーソン寺院『聖地』を建立する。
チャンパの人々は生きる喜びと神々を崇める厚い信仰心を持ってヒンズー教のシヴァ神を象徴とする、神格化された ヨニ(Yoni)の台座上に置かれた石造のリンガ(Linga)を崇拝した。
このミーソン遺跡から出土したチャンパ碑文によって、古チャム人と呼ばれている主要民族はオーストロネシア語系海洋民族であり、 古チャム人は現在のチャム民族の先祖であると考えられている。
さらに、この地から多数発掘されたサンスクリット語の碑文には、古チャム人はインド文化の影響を強く受けていたことが記されている。 その特徴として、写実性・躍動感のある描写は石像彫刻や装飾模様などに数多く施され残っている。
また、クメール美術、仏教美術、ジャワ美術などの美術様式の影響も受けつつ、チャム民族の持つ独自な土着造形美術とを巧みに組合わせ発展させることで、芸術性豊かなチャンパ遺跡群の造形は確立されていった。
一方、チャム民族は優れた航海術を駆使し、中部沿岸の交易港ホイアンを中継地として諸外国と海洋交易を行なうことで莫大な富を得て、 繁栄するチャンパ王国を築き上げていった。 日本との交流では御朱印船交易時代の寄港地として、重要な交易品目であった伽羅をはじめ、黒檀、象牙、陶磁器などの高価な品々を輸出していた。 今でもホイアンに残っている日本人町はその名残である。
チャム民族は長い歴史の中で複雑な領土争いを繰り返しながら、幾多の変遷の末に広域に点在する約250塔もの塔堂様式の建造物を建立してきた。 しかし、原形を維持し残存するチャンパの遺跡は約60塔(18箇所)にしか過ぎない。
10世紀以降、チャンパ王国を取りまく近隣諸国との民族抗争は予断を許さなくなった。
北からは中国人、南下に新天地を求めるベトナム人(キン族)、南からはクメール族、東の海からはジャワ族、さらにモンゴル軍など度重なる外圧と一進一退の攻防戦が続くなか、チャンパ王国の衰退は徐々に加速し南退へと動き出す。
その後、チャンパ王国はベトナム軍の軍事的圧力に屈して、最後の王都となる南部ヴィジャヤ(現在のクイニョン/Quy Nhon)の地に遷都する。
1471年、チャンパ国の王都ヴィジャヤは勢力を拡大するベトナム軍(黎朝/レ・タイン・トン)の侵攻に遭い陥落する。 ベトナム軍の統治下に置かれたチャムの人々は遺民となり、また近隣の地域に亡命するなど少数民族として現在まで生き延びていく事となる。
1832年、インド文化の枠組みで立国し、約1600年もの長きに渡り継承されてきたチャンパ王国の主権は、強国ベトナム軍を前に最終的に失われ消滅する。
ここに、古の時代から栄華を極めてきたチャンパ王国は亡国の時を迎える。 |